羽化、あるいは浸食
2004/05/29 Sat 18:59
最近、ツールが普及したことでウェブログが乱立したり、orkutやmixiのようなソーシャル・ネットワーク・システムがブームになったりしていますが、それらを背景として、ネットワークと現実との境界線がいよいよ不明瞭になってきているというか、ほぼ同じ観念の枠として融合しつつあると感じることが多いです。そして、個人的に、それは常に淋しいことだったりします。ネットワーク上であっても、もはや現実に生きる自分との間に境界を設けることは難しいのだなと。「現実を生きる自分」とは、現実に僕の近くにいる他人たちによってそう見られているところの客観的な自分であり、たとえネット上であってもそれに強く束縛されざるを得ないということです。
もちろん、そう感じさせる理由には「規制」や「逮捕」といった穏やかでない部分の話も含まれてくるわけですが、たとえばネット上での匿名性(もともと完全な匿名もまたあり得なかったのでしょうが、それでも「そういうこと」として皆が振る舞っている状況)がもはや守られなくなってしまったのは、その匿名性の負の側面が徒にいじりたおされてしまったからでもあるわけで、ある程度倫理的に振る舞わなければ維持されない状況が突き崩される口実を与えてしまったことの責任が、内部の人間にないとも言えません。
誰かに全責任を押しつけられる類のことではないし、この流れがおそらく不可逆なものである以上、誰が悪いのかを明らかにしてもそれほど意味はありません。それよりも必要なのは、自分の身の処し方を決めることでしょう。
ネットにいつづけるなら、「現実の」自分を受け入れ、折り合いをつけながらなんとかやっていく――もともとそうしていたとしても、その比重を増やすべきか。それとも徐々にフェードアウトして、またどこかにサナトリウムを作るべきか。結論は、そう遠からず出ることだろうと思います。
追記:なんかはっきりと意見が出てないので追記。ウェブログが「現実」に根差した「個人」が情報を発信するためのツールでしかないなんて、そんなつまらない話はない――とまでは言わないけど、そうではない領域があるからこそ面白いと思うわけですよ。典型的な例だと、家族や友人や同僚にバレづらい場所で、主観的に抱えているズレを表出するための手段として貴重なものとなっているはずだし、あるいはそういうところから、さらにもっと手の込んだエンターテイニングな「嘘」も出てくるはずで。そういう胡散臭い部分がネットからなくなることもきっとないんだろうけど、顔を晒して朗らかに「やあ、僕ってエッジだろ?」なんて言ってる人たちの陰に隠れていってしまうのはどうも……ってこれ、ネット上では保守的な意見になるんだろうか。(6/1)
追記:テレビでは小学生殺人の遠因をネットにしたがってた。そりゃあ「会話が原因で刃傷沙汰になったのは日本語が原因だ」って言うようなもんでしょ。(6/3)