ポンキッキーズ以来
2004/10/22 Fri 02:20
最近、神奈川の一部地域では電波状態のよくないJ-WAVEをむりやり聴いていたら、斉藤和義の『歩いて帰ろう』を久しぶりに聴いた。どうもまだ音楽活動は続けているようだが、日々を過ごす中で僕が受動的に聴いた曲は『歩いて帰ろう』だけである。能動的に聴こうとしたことはないので、つまり僕は彼の曲を『歩いて帰ろう』だけしか聴いたことがない。この曲を受動的に聴いていたのは『ポンキッキーズ』でヘビーローテーションだった頃のことで、当時も気に入ってはいたのだが、今日改めて聴いてみると、当時は感得できなかったものが表れてきた。
それほど音楽に明るいわけではないので専門的にどう呼ぶのかわからないが、この曲は「A B C A' C' B' A''」というシンメトリーを構成していて、特に気になったのはこのうちのC部分。
嘘でごまかして 過ごしてしまえば
たのみもしないのに 同じ様な朝が来る
最後の「朝が来る」の部分はC'で「風が吹く」となるが、どちらも自然現象であり、それが惹起するイメージの点でも大同小異と言えるだろう。
以前の僕はこの曲を、素朴に「たまには急がずのんびりしてみようよ」という主題の曲だと思っていた。タイトルに引き寄せられたこともあるだろうし、またそれほど的を外した解釈でもないとは思う。でも今回は、ただ「のんびりしよう」と解釈しただけでは「たのみもしないのに」という一節がすんなりと通ってくれないと感じた。これは基本的に「有り難くない」ことと呼応する副詞のはずだから。今回は、ここのところがやけに気になったわけである。
Bの部分は、「急がないと置いて行かれる」という不安を喚起する内容で、その流れからCを聴かされると「漫然と日々を過ごしてはいけない」という主張のように感じられる。しかし中心部のA'では「雲がのんびり泳いでいるから歩いて帰ろう」と、「のんびり」が称揚されている。そして、すかさずC'では
嘘でごまかして 過ごしてしまえば
たのみもしないのに 同じ様な風が吹く
である。この2度目のCにおいては、たとえ「嘘でごまかして過ごしてしま」ったとしても「同じ様な風が吹く」、つまり、ほぼ同じCという詞が、「たいして変わらないからのんびりしちゃうか」という諦めと解放の響きを帯びる。朝が来たり風が吹いたりするのは頼まずとも起こることであって、個人はその影響を一方的にこうむるばかりである。この「朝」や「風」がたとえ人間の領域、たとえば身近な社会における何事かの暗喩であったとしても、そう大きく変わることとは思えない。最近の心象からは、こうしたどうでもよさやどうしようもなさに共感を覚える点が少なくなく、そうした漠然とした思いがあったからこそ僕はこの曲の持つそうした側面に気づいたのだろう。
この『歩いて帰ろう』という曲が魅力的であった/あるのは、この「嘘でごまかして過ごしてしま」うことの両価性を、シンメトリーの中に配置することによって、双方ともに損ねることのないまま絶妙のバランスで提示しているところに秘密の一端があるのだと思う。