rei harakami "joy"
2005/06/09 Thu 08:06
ラジオを聴いていたらピンと来る曲がかかったので曲名を調べてみると、レイハラカミの『joy』という曲だった。「ああレイハラカミか、なるほどね」とピンと来たことに納得しつつそのまま聴いていると、「ああjoy(という曲名)ね、そうかもしれん」という気になってきた。と同時に、数日前に読んだ彼の文のことが頭に浮かぶ。
誤解を承知で書きますと、『失恋』に効く音楽ってモノが、おそらく世の中に流通してますよね。失恋した人が、失恋の痛手を癒す為に『失恋の痛手を癒す音楽』を消費する…なんてのはどうにもこうにもインスタントだなあって思うんですよ。失恋に限らず、『怒り』とか『希望』でもね。
例えば、ハラカミの音楽をたまたま聴いてみたら、「なんだか癒されちゃった」と思ってくれるのは全然構わないんです。でも、「なんだか無性に癒されたい」と思ってる人が癒されたいが為にハラカミのCDを買うのは、やっぱりなんか違うんだけどなあって思ってます。
なぜかと言うと、ハラカミは不特定多数の人間をおしなべて『特定の何かを想わせる』為に音楽を作っているわけではないからです。
(やや告知しつつ。 - レーハラッカミの『ふれあいゴシゴシ問答』)
「押しつけではない音楽」と言葉にしてしまうと簡単すぎるようだが、特に商業音楽という場にいながらこういう姿勢でいつづけるのは、それほど簡単なことではないように思う。あるいは商業音楽という側面を無視しても、なお簡単なことではないだろう。
かといって、何らかのラベリングができないとそれはそれでキツイというか、聴く側の負担が大きくなりすぎることもある。ひとつの曲をじっくり聴いて解釈するだけの時間が得られなかったり、そもそもそういう習慣がなかったり、するとしても面倒だったり、いろいろする。でも、たとえ癒されたくたって、「癒し系」を自認していたりそのようにプロモーションされている曲を聴こうという気にも、やっぱりならない。
僕は曲名を知らないまま『joy』を聴いて、調べた結果わかった曲名に示唆されて、「ああ、そうかもね」と思った。この「示唆」という距離感。べつに『joy』だと思わなくてもかまわないけど、かといって投げっぱなしにもしない感じ。こういうところがツボなのかなと。
とりあえず『[lust]』は買おうと思います。
rei harakami - [lust] (Amazon)
rei harakami - [lust] (MUSIC MINE) ←試聴できます