脱力

2006/12/23 Sat 04:39

僕がおそらく真実であろうと思っている諸前提から論理的推論を導くと(というほど大げさでもないが)、どうしても死ぬことが最も効率が良いということになる。

とはいえそれはあくまで論理的にそうであるというだけのことであって、すぐに「さあ死のう」ということにはならない。しかも「死ぬことが生きているよりも良い」という結論にもならず、生きていることは死んでいることと同じ程度には意味がないということになるだけである。同じく意味がないなら生きていても死んでいても同じというわけで、たとえば生きていることがどうしても苦痛につながるなら死んでもいいんじゃないか、という話である。

「意味のなさ」という部分の定義を簡単にしておいたほうがよさそうだけど、要するに人間はいずれ死ぬし、人類はいずれ絶滅するし、それでも宇宙はあるというようなそういった感覚で、科学的認識によって目的論的(キリスト教的)世界理解が崩壊したとかそういう思想史上の事件の廉価版みたいなものだと思ってもらえればいいと思う。

こういう認識を持っていても、人間レベルの物事に生き甲斐を見出して生を肯定的に捉えることは十分に可能であると思うし、実際に世を生きている人たちには(世界・宇宙レベルの認識の有無を問わず)そのように考えている人が多くいると思う。しかし僕の場合、人間レベルの物事を見ようとしても世界・宇宙レベルの無駄さがどうしてもそれに勝ってしまう。でもすぐに死のうとは思わない(この理由を突き詰めるのも興味深いところだが、今回は措く)。結果、無気力になる。

こうなってくると、その無駄をいかに楽しむか、楽しめるかというところが大事になってくる。実際、今まではそのようにやりすごしてきたのだが、うまくいかないことも出てくるもので。「社会的にはやらなければいけないこと」というものは、生きていく(金を稼ぐ、食べる)ためであったり、達成感とか社会的意義とか社会的ステータスとかによって、少なくとも部分的には動機付けられるものであるはずだが、それらがすべて無効である場合には、楽しみを見出せなくなったとたんに「やる必要のないこと」になってしまう。積極的に死のうとしているわけではないので、やらなければ死んでしまうとなれば違うかもしれないが、そういうこともない。地味ではあるが、これは「危機」である。遠い目線から社会全体の問題として捉えるのでなく、個人的にそういう傾向が強まると厄介なことこの上ない。

社会的に報われていないことを世界・宇宙といった大枠の問題にすり替えているのではないか、と自分でも問うてみることはあるけど、おそらく社会的に報われたとしても同じ問題は起こりうるだろうし、現在の僕自身がそれなりに社会的に報われているという見方もできる。

僕が数年前に宮代真司を読んでいたことを書き添えたほうが誠実だろうか。まぁニーチェでもキェルケゴールでもパスカルでもいいんだろうが、いずれにせよ未解決であり今後も見通しは暗そうな問題ではある。信仰ねぇ。

さて、こんなことを考えて沈んでいると沈む話が寄ってくるもので、今日読んで印象深かったページは以下の2箇所。まぁ石を投げれば報われない人に当たる成熟した資本主義社会こと日本なわけですが、みなさん元気ですか? 社会的に報われないことが上記の僕のような「信仰」に向かうきっかけとなる側面はあるような気がしますが、しかし完全に断絶している(いずれにせよ無駄である)ならばむしろ社会的な報われなさに耐えることもできるような気もします。でもなんだか未整理だな。

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MASU (2006/12/28 Fri 23:15:54)

悩むだけ無駄だ

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