2006/01/31 Tue 04:27
「月光音楽団」というTBSの深夜番組(たぶん関東ローカル)にゆずがゲスト出演、レギュラー陣(安田美沙子、夏川純、山本梓、ベッキー、あと誰か男)の目の前でライブを行うという趣向でした。で、まぁ今までの「名作」を並べて歌ってたわけなんだけど。
今までもずっとそうだったんですが、ゆずの曲を聴いていると、どうも心がざわざわするというか、落ち着かないような居たたまれないような気持ちになってくる。「さわやかな曲」であるということは百も承知であって、なのに――というか、だからこそ、ざわついてしまう。『カイジ』の、観客の「ざわ・・・ざわ・・・」ではなく、カイジをはじめとする登場人物が、うまくいっている最中にある突発的な出来事が起こって不意に波立つ、あの内面の「ざわ・・・」のほう、あれに近い。
ここで、ゆずの歌詞をいくつか検討してみた結果を先取りしてしまうと、これはゆず(のメンバー2人)のせいではなく、その片割れでリーダーである北川悠仁のせいであることがわかりました。北川は、いかにもノスタルジックで切ない情景を盛り込んだ歌詞を作るのが巧く、実のところゆずの一般的に知られている曲の多くは北川作詞・作曲だったんですね。
北川の作った曲を聴いていると、「同世代ですぐ近所に生まれ育ったてるのに、俺にはこういう経験がないのはなんで? これが格差社会?」、「これ、同世代であれば『あたりまえに』通過しているはずの『等身大の』出来事の記憶なんでしょ?」、「他のやつらはこんな切ない経験のひとつやふたつ持っていて、たまに思い出してはふと切なくなってイイ気持ちなっているに違いない」、「こんなにさわやかな歌詞の世界にまったく入っていかれない俺って?」、「結局のところ俺が全部悪いんだ……」と、徐々に死にたくなってきます。
そんな死にたい気持ちをグッとこらえて、問題の所在を明らかにすることが俺に与えられた仕事だと無理矢理にでも思いこむことにします。ギリギリのところで生存本能が働いているのかもしれませんが、まあ深くは追わずに。
さて、ライブで演奏されていた曲の詞を検討してみます。
この長い長い下り坂を 君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく
(『夏色』)
キタコレ、切ない思い出の1シーン。ここに必要な条件を列挙してみると以下の通り。
- 学生(たぶん中高生)
- 自転車通学
- 通学路上に坂がある
- 同じ方向に帰宅する女子と友達である
- その友達とは、自転車に2人乗りで登下校するくらいには仲がよい
こんなやつがクラスに何人いたでしょう……まぁCDを100万枚売るためには国民の100人に1人弱に売ればいいわけですから、このくらい該当者がいればいいということなんでしょうか……。
大きな五時半の夕やけ 子供の頃と同じように
海も空も雲も僕等でさえも 染めてゆくから…
(『夏色』)
「いつかどこかでみんな経験したことのあるような」情景を描き込み、それをさわやかなギターサウンドに乗せてさわやかに唄いあげ、「その実、そのまんまの経験は誰もしたことがないような」情景であることを抑圧して最大限の共感を呼び込む。こういうところがゆずの、いや北川悠仁の才能というわけなのでしょう。しかし、そのさわやかさの純度が高いだけに、僕のような人間に対する凶器としてのスペックも高まっていくわけです。ナイフみたいに尖ってる、どころじゃねえ。
この強力なステレオタイプさこそが北川の武器だということがわかりました。以下の詞もそれを支持する例と理解すれば納得できてしまいます。
いつからなんだろう お互いに素直になれぬまま
大切に思うほど 大事な事が言えなくなって
サヨナラバスはもうすぐ君を迎えに来て
僕の知る事の出来ない明日へ 君を連れ去って行く
サヨナラバスよどうか来ないでくれないか
やっぱり君が好きなんだ
(『サヨナラバス』)
大きな観覧車「花火みたいだね」って
笑った君の横顔 時間が止まって欲しかった
心変わり今は責めても 違う誰かの元へ
そしていつの日か忘れてゆく 君の笑顔も泪も
ありがとう さあ振り返らずに行けばいい
いつの日かまた 笑って話せる時が来るさ
初めて君と口付けた桜木町で最後の手を振るよ
(『桜木町』)
東横線の桜木町駅が廃止になるときに、その思い出を歌にした、というのですが、俺にとっての桜木町はまったくこんな場所ではありません……とはいえ、山崎まさよしの『One more day, One more chance』はこれに比べるとだいぶ聴いてて平気なのはなぜなのかいまひとつ説明つかないんですが。
ナイター帰りの子供達 目を輝かせメガホンを叩いている
あん時想い描いてた大人ってやつに 僕はなったんだろうか?
考えすぎて眠れなくなって 来るはずもない君の電話を待ってた
友達はだんだん家庭を築いてく 一生懸命幸せを探している
(『もうすぐ30歳』)
「あん時想い描いてた大人」というのは、「今年で30しっとるケのケ」と歌っていた明石家さんまのことでしょうか。僕にはナイターで目を輝かせてメガホンを叩いたこともなければ、その頃に大人像を思い描いていた記憶もありません。それに、NHKのオリンピック公式ソングに選ばれる以上にすごい「大人」のイメージをどう描けというのか? まあ、そもそも前提として想定できる「君」すら存在しないので、万が一の電話を待つことすらできない僕には、想像もつかないことなんでしょうね……そんな僕だってもうすぐ30歳。
ここまでに列挙した曲はすべてゆずリーダー・北川悠仁の手になる曲(ゆずは作詞・作曲を基本的に同じ人間が担当する)だったわけですが、サブリーダーである岩沢厚治の曲は、(もちろん僕にとって)北川の曲よりもだいぶ、いやかなりマシです。
「最近どう?」ってお前が電話くれるのはいっつも
どうしてこんなにタイミングの悪い時ばっかで
「ギリギリどうにか生きてはいる」とグチるたび
わかるよ どうにもならない日がお前にもあんだろう
税金だってちゃんと払って生活をしてる
はたから見ればそれなりに「一っ端」を気取ってる
でも一っ端つうのは一体どっからどこを言うんだろう?
まぁいい 今はビールでも飲んでりゃそれで幸せだ
(『一っ端』)
たったちっぽけな自分の為 大きい方のカバンを選ぶ
僕は何を捨てられるのだろう? 何から僕は捨てられるだろう?
中学生の頃に覚えた 人を本気で憎むという事
それなりに歳は重ねて来たが 今だに心の中に根付く
(『夕立ち』)
雨が急に降り出した 通り雨だと誰かが言った
遠く遠く見えない明日を待ち
深く深く沈みいく昨日を背にして
(『街灯』)
朝起きて無性にコーヒーが飲みたくなって
僕はあの店にポンコツの車を走らせた
ところで気になるウエイトレスのあの子は
知らぬ間に辞めていったと誰かが言ってた
そんな事はおかまいなし僕はただあの店の
コーヒーを飲みに行くのであって
やましい事など一つもないとは思うけれど
タバコをプカプカと一人でのんびりしたいんだ
(『巨女』)
ああ岩沢くん、僕はきみとなら友達になれる気がするよ。でも残念ながら、ゆずのシングルはほとんど北川くんの曲だね。北川くんと組んで正解だったのかもしれないね、でも僕は、岩沢くん、僕はきみと友達になりたいんだ。
まあ北川曲をシングルから選んできたのに対して、岩沢曲はアルバムの後ろのほうから持ってきてますが、しかしシングル曲が圧倒的に少ないということがまず岩沢曲のトーンを証言しているとも言えましょう。美しくもさわやかでもなく、ダラダラしたもっさり感にイヤな黒さも混じります。このコントラストが見えてくると、こんど岩沢曲のためにアルバムを買ってみようかとすら思ってしまいます。
まあ、ゆずの曲がステレオタイプな軽いノスタルジーを売りにしてることなんて前々からわかってると言えばそうなわけですが、聴かされてたら(かつそれに喜ぶタレントを見ていたら)本気で沈んできたので、そのどろどろをなんとかしたかっただけです。
2005/09/10 Sat 23:19
ハリケーン・カトリーナによってニューオリンズにもたらされた惨状、とりわけ治安の悪化を見ると、阪神・淡路大震災のことを思い出してしまう。僕が知っている(マスコミを通したものに限られるが)限り、あのときは略奪も起こらなかったし、銃声も鳴らなかった。日本でアメリカほど銃声が鳴らないのは当然としても、どうしてあれほど治安が悪化してしまうのか。アメリカがそうなってしまった要因は以下の4つあたりだろう。
- 国家が抱える多様性
- 根本的な文化差?
- 深刻な貧富格差
- 富裕層を優遇する政府の方針
もちろん、阪神地域の治安が維持されたのは行政など公的な組織や、企業および山○組のような私的組織の協力あってのことではある。あるいは「単一民族」神話などが前提となった「民度」であることも事実だろう。しかし、人々の外見や行動様式が似ているというだけで「民度」が維持されるわけではない。経済の均一性、「中流」階級の層の厚さが大きく寄与しているはずで、むしろこちらのほうが重要なのではないかとすら思う(この「総中流」社会もまた神話であったのかもしれないが、それが神話としてであれ、ひとまず機能していたということを前提とする)。
だが、日本もまたこれを破壊する方向に進みそうな勢いである。資本の流動化と合理化はたしかに経済を活性化することにつながるのだろうが、シビアな世界観はリスクも高い。阪神・淡路大震災がニューオリンズのようにならなかった背景には、しばしば「社会主義」と評された日本社会の構造が背景となっている。それが失われた(と人々が認識した)とき、カトリーナがもたらした南アメリカの状況が日本でも再現されるリスクを背負うことになりかねないのではないか。
こういう事件を目の前にしてしまうと、今回の衆院選では共産党にでも入れておくかという気にもなってくるのだが、ふと立ち止まって考えてみると、第二次大戦後の「社会主義」日本を構築したのは共産党でも社会党でもなく、紛れもない自民党なのであった。小泉純一郎が「ぶっ壊」そうとしているのは、まさにその種の「自民党」なのである。その「自民党」とは、現在の民主党に集まっている面々を含むものでもあった(国民新党は措いておく)――などなどと、考えていくたびにどこへ投票したもんだかわからなくなってしまう。
まぁ旧自民党の面々が民主党に集まっているからといって旧自民党的な政策を行うというわけではない(どころかマニフェストを見る限り民主党も原則としては改革路線だし)のだが、少なくとも現在の自民党/小泉政権の提示するビジョンに不安を感じるのなら政権を取りたがっている野党に入れておくのがいいのかもしれないと思う一方で、民主党のビジョンに必ずしも賛同できるわけでもなく、また現在の社会状況を考えると自民党の線も出てくる。「総中流」化を前提とし、かつそれを維持していた「社会主義」的諸制度が、現在では疲弊して膿がたまっているのも事実であり、何らかの見直しを行う必要はあるんだろう。しかしその処方箋としての自由市場化もリスクが怖い。こうした状況から選択をしろと迫られても、そもそも今の政党勢力図では選択肢が不十分な気もする。
もうわからないからMMOに帰るか……。
2005/05/05 Thu 00:06
話題としては旬を過ぎているものの、予備軍のひとりとして、ニートについてはせる想いを書き留めておきたい。「なぜニートが増えるのか?」ではなく、「なぜニートは減らないのか?」という問いについて。
結論から言えば、働いたからといって「相対的に」得をするとは思えないからである。労働市場においては、25歳以上になるとすでに「中途」の枠に入る。しかし多くの、特に待遇がそれなりに整っている中途採用の募集要項には、ほぼ確実に「経験者」という条件が付けられている。この「経験者」とは、単に「(アルバイト等であれ)その業種に携わったことがある」という意味よりも、むしろ「正社員またはそれに準ずる立場で、その業種に3年程度携わったことがある」という意味が強い。そしてもちろん、ニートが「経験者」である可能性は低い。こうして「経験者」と「未経験者」の間にある溝は深まってゆき、アルバイトホッパーは年齢を重ねるごとに飛び石を失ってゆく。
無業者や引き籠もりに関して (ノビイズム)
で、上の記事のような言説をある程度前提としつつ、過程を端折る。ニートの側は好条件を求めるが、雇う側は好条件を与えるほどニートを評価しない。この点について問題となるのは労働市場における「未経験者」であって、その枠に括られるのであれば「フリーター」と「ニート」の間に差はない、と考える。逆に、「経験者」と評価されるほどの「フリーター」は対象外となる。
要するに、現状では、雇う側の言い分が「おまえらは既に労働市場での価値がなくなってるということを受け容れて、安い賃金で都合よく働かされることに我慢しろや」というようにしか聞こえないということについて。もちろん経営者たちの本音が85万人とも言われるニートの評価を押し下げたまま都合のよい単純労働者を確保して人件費を節約したいということなら、階層化が進む国内に労働意欲あふれる外国人労働者が入ってきて低所得者層のネイティブ日本人との対立が起こって極右が大量に議席を確保、とかこの途中までとかそんなところ。しかし、ニートをどうにかしようと本気で行動するのなら、雇う側が言い分を譲歩しない限り無理だろう。
だから、ニート側の意欲向上を計ることだけが「対策」であるなら方手落ちで、雇う側が要求を引き下げる、あるいはそういう姿勢を奨励する対策がなければ事は進んでいかない。経営者たちの本音が都合のいい労働力を求めているだけなら仕方のないことではあるが、たぶんニートは減らない。雇う側からすれば、ストレートで大学を卒業してきた新卒やら、現場で叩き上げられた経験者を優遇するのは当然で、ニートに対する評価は妥当だと考えているんだろうが、現状の雇用にニートの側が反応していないのならば問題は解決しない。学校法人やNPOが職業訓練を行っても、彼らは「経験者」にはならない。いま必要なのは「未経験者」を「経験者」に変えてゆく努力であり、これは現場の経営者が動かなければ始まらないことだと思う。
かといってニートの側も妥協をしないというのでは、やはり話が進まない。そこで、ニートへの働きかけを行うにしても、「働く意欲を促進する」と同時に、「現実的な目標を設定する」あるいは「妥協を促す」方策はどうしても必要だろう。ただし、現時点での間接的な示唆(雇う側が履歴書を見ただけで不採用にするとか)がニートに妥協を促すことに成功していないのだとすれば、このアプローチをどのように行うかは繊細に考えるべきで、ニートの面子も適度に保つような配慮をしてやってもいいんじゃないかと。つまり、ニートにも妥協は必要だが、片務的になってしまってはニートは動かないだろう、ということだ。雇う側がニートに対して兵糧攻めを仕掛けていると考えれば勝負は決まっているようなものだが、少なくともフェアだとは思いがたい。
「未経験者」のうち、ニートとフリーターで異なっているのは、そのアンフェアな状況を受け容れるかどうかという点だろう。ただし、フリーターのうちでも「サラリーマンにはなりたくない」「実現したい夢がある」などのような理由で積極的にフリーターを選んでいるのは少数派ではないかと思う。むしろ親に経済的に依存できないからとか、収入ゼロよりはまだマシだからとか、消極的理由でフリーターになっている場合が多いんじゃないだろうか。また、順調にキャリアを積み重ねた同期や年下の人間に対して引け目を感じてフリーターに留まっているという場合、内的な状態はニートとほぼ同じである。
ニートではない側からニートを話題にする人たちの中には「いいから働いてしまえ」という内容の意見もあって、これは、単に「間に合わなくなる前に、少しでもましな生活を確保しろ」というメッセージであると同時に、「仕事をしてしまえばより良い条件の仕事が転がっていることもあるので、ひとまず何でもいいから『経験者』になってしまえ」という意図も少なからず含まれている、ような気がする。実際、アルバイトや契約社員から「経験者」となってマシな方向へと進む道も、少なからずあるのだろうと思う。ただしニートたちが「仕事の実態」らしきものに触れるのは、せいぜいマスメディアを通じてでしかないので、ニートが「いいから働いてしまえ」という言葉だけを聞いた場合、後者のようなメッセージとしては伝わりにくいと思う。このあたりの疎通がうまくいっていないことも問題のひとつかもしれないが、かといって働くことを勧める側も「絶対に良い条件が現れる」とは言えないので、断言するのは難しいところだろう。
とはいえ「ニートなんてまったく理解できない」という層が雇用の実権を握る限り雇う側の妥協は出てこないのかなぁ、とニート内々定者としては思うのだった。あるいは、「少ない人員で捌ききれるギリギリの量の仕事を懸命にやりくりするのが精一杯で財布にそんな余裕はないよ」という状況も事実としてあるんだろうし。近い将来、「期限切れ」の労働力が低待遇で使われていく状況はどうしたって出てくるだろうなぁ。
ほぼ印象論だけどとりあえずこんなもんで……ニートの「雇用」に対する見方については、個人的に70年代後半生まれとして経験したバブル崩壊のイメージと関わりを見出せる気がするのだが、それはまた気が乗ったときに。
今日の参考ウェブ一覧
追記(5/8 04:12): 全体的に追補・修正しました。
2005/04/05 Tue 05:40
マルチタスクは人間に向いてない(CNET Japan)という記事を読んで、そういえば最近ひとつの主題を長時間キープして考え続けたりしてないなぁと思った。このとき念頭に置いていたのは主にここに書く内容のことで、以前はウェブに自分のことを書き散らしていたものだが、しばらくそういう書き方をしていない。というより、できなくなってるのかもしれないと不安にもなったりしたので、久しぶりに書いてみようかと思う。またしばらく忙しい時期に入りそうだし。
ある友人が、久々に会った彼の友人が社会的に立派になっているのでショックを受けていた、というのを間接的に知った。まぁ細かいことを問えば「社会的に立派になった」という表現には収まらない出来事であったようなのだが、とにかく彼はそういうような友人と自分とを比較して、空しくなっちゃったようであった。
僕はこの7~8年間で、周囲の環境がかなり激しく変化した。僕の周囲にいる人が、普通かそれ以下の社会的ステータスを持つ人たちが多数派であったところから、普通かそれ以上、あるいはとても良いステータスを有する人たちが多数派になってしまった。前段に登場する「友人」はこの7~8年の間に僕の友人になった人物で、今の僕と同じか、もっとひどい(周囲にいる人の社会的ステータスが高い)環境に置かれている。
僕の周囲にいる人々の社会的ステータスは分散しているので、彼のような事態に置かれたとしても彼ほどのショックは受けない。ビリー・ピルグリムのごとく「そういうものだ」と思ってスルーするか、少しはショックを受けたとしても自分の生活にあまり影響は出ないと思う。あるいは、僕が彼よりも老いていることがひとつの原因であるかもしれないが、しかしそれ以外にも置かれていた環境の違いが大きく作用しているだろう。
ある種の社会的選別が鮮明に現れてくるタイミングにさしかかったときに、置いて行かれる立場に立った/立たされたとき、置いて行かれるその落差が大きいのはむしろ、周囲に良いステータスを持っている人たちが多い人のほうなのかもしれない。
六本木ヒルズで行われているという若手起業者のサークルに参加している人が「ここに来るとテンションが上がるんですよね。みんなテンションが高いので、上げざるを得ない」と嬉々として語る様子をテレビで見たが、そういう資質ないし動機を共有する同士であればシナジー(笑)効果も期待できるのかもしれない。でもそれが共有されていない場合、ある種の悲喜劇的な状況ができあがる。同情するよ、伝わらないけど。
さて、全力でダッシュする側のトップグループにいる梅田さんの「次の10年はどういう時代か?」(My Life Between Silicon Valley and Japan)という記事から、彼が語ったという講演の内容を。
20代半ば(1980年生まれ前後)の人たちが、キャリアとして大きな成功を得られるか否かは、自分が2010年から2030年くらいの間に自分が何ができるか、ということにかかる。ちなみに、僕の場合は1960年生まれなので「1990年から2010年」という期間が極めて重要で、キャリア形成という意味では、その間に時代の流れとシンクロできたことが大きかった。
だとすれば、2010年から2030年という時代がどういう時代であるのか、ということをいつも意識して考えることが必要だ。そのためには、歴史はこれまでどういう風に動いてきたのかということから、これからの10年がどうなっていくか考える癖をつけるといい。
「自分はこれをやる」と内面から湧き出すものがある人は別だが、普通は、時代の大きな流れの中でどういう役割が果たせるのか、ということのほうがキャリアにおいては重要になってくるからだ。
僕と同世代でダッシュをかましている人たちは、いままさにこういうことを考えているのだろう。ちなみに僕は70年代生まれなので、「極めて重要な」2000~2010年はもうすでに半分が過ぎようとしている。僕は何かしてきただろうか――あまり考えたくない問いだ。ゼロだとは思わないが、何かを生み出すような蓄積かどうかは甚だ疑問である。少なくとも「キャリア」にはつながりそうにない。そして、ここしばらくは、「内面から湧き出すもの」もなければ「時代の大きな流れの中でどういう役割を果たせるのか」にもあまり関心がない。その「流れ」を眺めるのは嫌いじゃないが、そこに入っていこうとは思わない。
これはどういうことなんだと。とにかく不思議である。なぜこうまでもどうでもよく、しかもそれがかなり妥当であると僕が思っているのか。そう思わない人は、いかにしてそうなのかと。内面から何かが湧き出しているとすれば、そんなことばかりである。それはここ数年はじまったものでもない。だからこそ僕はキャリアを左右すると言われる重要な時期にあっても「これからお休みの人」と杉崎美香にカテゴライズされながら「めざニュー」を見ているのである。「それがあなたなんだからいいじゃないか」などというみつをイズムが欲しいのではない。
9年以上前の生活がひどく恋しい。