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及川祐がスケートをやめそうになってた件

2006/02/14 Tue 05:55

「第3の男」及川が大健闘 メダルには一歩及ばず - スポーツ (asahi.com)

というわけで、調子を落としているエース・加藤条治の脇をぬけて五輪4位という好成績を残したスピードスケートの及川選手ですが、競技を終えたあとのインタビューで「大学を出るときにスケートをやめようか迷っていた」という話が出ていました。以下のインタビュー記事にも同じ話が。

五輪 翔べTORINOへ 及川佑(スピードスケート) (スポニチ)

いかにアマチュアとはいえ、日本は実績も重ねているし、認知度だって確固たるものなわけでしょ。例えばラクロス(例に出して申し訳ないけど)みたいなレベルのスポーツじゃないわけですよ。そこで五輪4位に入るようなポテンシャルの選手がスポーツを続けられないという事態が起こってるのか……仮にも先進国と言われて久しいのに。なんか、端的に「いい国じゃないなぁ」と思わされてしまった。

まぁ漠然とした「国」に責任を転嫁しただけで終わってもしょうがないので、少しは内実を推測してみよう。まず景気拡大はバブル・いざなぎを抜く勢いだということだが、及川が就職をにらんでいた02~03年頃、たしかに新卒雇用が冷え込んではいたので、経済の状況が思わしくなかったことは一つ理由として考えられる。

さらに、本人の実績が不足していたという事情もあるようだ。

 ――池田高、山梨学院大では注目を浴びるような存在ではなかった。大学4年時、インカレ五百メートル優勝以外は目立ったタイトルがなかった。

 高校卒業後、スケートをやめるかどうか迷ってました。でも両親が「自分が納得するまで続けなさい」と言ってくれたので進学を決意。大学(選び)は高校で大した実績もなく、あまり強いところに行きたくなかったので山梨学院大学に決めました。弱いところで強いところを倒す方がおもしろい。インカレでタイトルを獲った時は1本目のモチベーションや滑りが今も含め、スケート人生で最高のものと思ってます。

 ――大学を卒業する03年3月は就職先がなく、一時は引退の可能性もあったが、「びっくりドンキー」を経営するアレフに就職が決まった。

 (就職が)見つからなかったときは、潔く(スケートを)辞めるつもりでした。会社や(庄司昭夫)社長への感謝は言葉ではとても表せません。いい結果、いい滑りを見てもらい喜んで頂きたいですね。

(スポニチ掲載のインタビューより)

「目立ったタイトルがなかった」のが原因だとすれば、彼の陰に早熟で実績を残してきた選手がもっと隠れていて、今もスケートを続けているということなんだろうか。しかしそれにしたって、一度でもインカレで優勝したことがあって、モチベーションも持っていた選手が引退を考えてしまうというのは十分に悲しい。スケートが「弱い」山梨学院大にいたということもおそらく関係してるんだろうなぁ。

このインタビューでもう一つ考えられるのは、彼の性格が原因になったんじゃないかという部分。「大学(選び)は高校で大した実績もなく、あまり強いところに行きたくなかったので山梨学院大学に決めました。弱いところで強いところを倒す方がおもしろい」というコメントからは、あまり強く自分を押し出してはいかないタイプであることが窺える。自分のモチベーションと周囲の状況とを秤にかけたとき、周囲に気を遣って自分を抑えてしまう。大学卒業時だけでなく高校のときにもスケートをやめようか迷っていたという事実なんて、まさにそういうことだ。

しかしですよ、それでも世界屈指のスタートを武器にオリンピックで4位に入るわけですよ。こういう性格がスポーツに向いてないというのは直観的に正しそうに見えるけど、必ずしも事実ではない。蓋然性を取るならたしかに正解なのかもしれないけど、単なる思い込みだけではないかという疑問が付されるべき判断材料であるのも間違いない。

と、なんとなくではあるが、不景気を背景としつつ、メジャータイトルとコネの不足に加えて押しの弱さが彼のスケートキャリアの壁として現れていたということが見えてきた。でも個人的には納得がいかない。不景気だからといってそれなりに才能がありそうな人材を見過ごしてしまうのは、あまりにも貧しい。コネがなければ才能が潰れてしまうという事実はもっと悲しい。思い込みも含めてそうなってしまったら、目も当てられない。

それでも「神」とか「天」がきちんと見ているから及川はスケートを続けられたんだ、というような方向で世界の善さを信じる人もいるんだろうが、僕としては及川と同じような状況で実際にスケート(や他のスポーツ)の道をあきらめてしまった人の群れが目に浮かんで、もっとイヤな気分になってしまう。少なくとも今回の件は美談として語られていい出来事で、何かを続けようかやめようか迷っている人にとってポジティブな材料になったりもするんだろう(だからこそ中継のインタビュアーも話題に出したわけで)。これで頑張る人が出てくるなら喜ぶべきことだ。でもその背後に、抽象的にも具体的にも「貧しい」価値判断が見え隠れしていて、個人的には、社会への信頼感につながるよりもむしろ一つの危機を感じ取るべき出来事に思えてしまう。特に、これがスピードスケートという種目で起こっているというあたりで。

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カトリーナと総選挙

2005/09/10 Sat 23:19

ハリケーン・カトリーナによってニューオリンズにもたらされた惨状、とりわけ治安の悪化を見ると、阪神・淡路大震災のことを思い出してしまう。僕が知っている(マスコミを通したものに限られるが)限り、あのときは略奪も起こらなかったし、銃声も鳴らなかった。日本でアメリカほど銃声が鳴らないのは当然としても、どうしてあれほど治安が悪化してしまうのか。アメリカがそうなってしまった要因は以下の4つあたりだろう。

  • 国家が抱える多様性
  • 根本的な文化差?
  • 深刻な貧富格差
  • 富裕層を優遇する政府の方針

もちろん、阪神地域の治安が維持されたのは行政など公的な組織や、企業および山○組のような私的組織の協力あってのことではある。あるいは「単一民族」神話などが前提となった「民度」であることも事実だろう。しかし、人々の外見や行動様式が似ているというだけで「民度」が維持されるわけではない。経済の均一性、「中流」階級の層の厚さが大きく寄与しているはずで、むしろこちらのほうが重要なのではないかとすら思う(この「総中流」社会もまた神話であったのかもしれないが、それが神話としてであれ、ひとまず機能していたということを前提とする)。

だが、日本もまたこれを破壊する方向に進みそうな勢いである。資本の流動化と合理化はたしかに経済を活性化することにつながるのだろうが、シビアな世界観はリスクも高い。阪神・淡路大震災がニューオリンズのようにならなかった背景には、しばしば「社会主義」と評された日本社会の構造が背景となっている。それが失われた(と人々が認識した)とき、カトリーナがもたらした南アメリカの状況が日本でも再現されるリスクを背負うことになりかねないのではないか。

こういう事件を目の前にしてしまうと、今回の衆院選では共産党にでも入れておくかという気にもなってくるのだが、ふと立ち止まって考えてみると、第二次大戦後の「社会主義」日本を構築したのは共産党でも社会党でもなく、紛れもない自民党なのであった。小泉純一郎が「ぶっ壊」そうとしているのは、まさにその種の「自民党」なのである。その「自民党」とは、現在の民主党に集まっている面々を含むものでもあった(国民新党は措いておく)――などなどと、考えていくたびにどこへ投票したもんだかわからなくなってしまう。

まぁ旧自民党の面々が民主党に集まっているからといって旧自民党的な政策を行うというわけではない(どころかマニフェストを見る限り民主党も原則としては改革路線だし)のだが、少なくとも現在の自民党/小泉政権の提示するビジョンに不安を感じるのなら政権を取りたがっている野党に入れておくのがいいのかもしれないと思う一方で、民主党のビジョンに必ずしも賛同できるわけでもなく、また現在の社会状況を考えると自民党の線も出てくる。「総中流」化を前提とし、かつそれを維持していた「社会主義」的諸制度が、現在では疲弊して膿がたまっているのも事実であり、何らかの見直しを行う必要はあるんだろう。しかしその処方箋としての自由市場化もリスクが怖い。こうした状況から選択をしろと迫られても、そもそも今の政党勢力図では選択肢が不十分な気もする。

もうわからないからMMOに帰るか……。

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ニートはなぜ減らないか

2005/05/05 Thu 00:06

話題としては旬を過ぎているものの、予備軍のひとりとして、ニートについてはせる想いを書き留めておきたい。「なぜニートが増えるのか?」ではなく、「なぜニートは減らないのか?」という問いについて。

結論から言えば、働いたからといって「相対的に」得をするとは思えないからである。労働市場においては、25歳以上になるとすでに「中途」の枠に入る。しかし多くの、特に待遇がそれなりに整っている中途採用の募集要項には、ほぼ確実に「経験者」という条件が付けられている。この「経験者」とは、単に「(アルバイト等であれ)その業種に携わったことがある」という意味よりも、むしろ「正社員またはそれに準ずる立場で、その業種に3年程度携わったことがある」という意味が強い。そしてもちろん、ニートが「経験者」である可能性は低い。こうして「経験者」と「未経験者」の間にある溝は深まってゆき、アルバイトホッパーは年齢を重ねるごとに飛び石を失ってゆく。

無業者や引き籠もりに関して (ノビイズム)

で、上の記事のような言説をある程度前提としつつ、過程を端折る。ニートの側は好条件を求めるが、雇う側は好条件を与えるほどニートを評価しない。この点について問題となるのは労働市場における「未経験者」であって、その枠に括られるのであれば「フリーター」と「ニート」の間に差はない、と考える。逆に、「経験者」と評価されるほどの「フリーター」は対象外となる。

要するに、現状では、雇う側の言い分が「おまえらは既に労働市場での価値がなくなってるということを受け容れて、安い賃金で都合よく働かされることに我慢しろや」というようにしか聞こえないということについて。もちろん経営者たちの本音が85万人とも言われるニートの評価を押し下げたまま都合のよい単純労働者を確保して人件費を節約したいということなら、階層化が進む国内に労働意欲あふれる外国人労働者が入ってきて低所得者層のネイティブ日本人との対立が起こって極右が大量に議席を確保、とかこの途中までとかそんなところ。しかし、ニートをどうにかしようと本気で行動するのなら、雇う側が言い分を譲歩しない限り無理だろう。

だから、ニート側の意欲向上を計ることだけが「対策」であるなら方手落ちで、雇う側が要求を引き下げる、あるいはそういう姿勢を奨励する対策がなければ事は進んでいかない。経営者たちの本音が都合のいい労働力を求めているだけなら仕方のないことではあるが、たぶんニートは減らない。雇う側からすれば、ストレートで大学を卒業してきた新卒やら、現場で叩き上げられた経験者を優遇するのは当然で、ニートに対する評価は妥当だと考えているんだろうが、現状の雇用にニートの側が反応していないのならば問題は解決しない。学校法人やNPOが職業訓練を行っても、彼らは「経験者」にはならない。いま必要なのは「未経験者」を「経験者」に変えてゆく努力であり、これは現場の経営者が動かなければ始まらないことだと思う。

かといってニートの側も妥協をしないというのでは、やはり話が進まない。そこで、ニートへの働きかけを行うにしても、「働く意欲を促進する」と同時に、「現実的な目標を設定する」あるいは「妥協を促す」方策はどうしても必要だろう。ただし、現時点での間接的な示唆(雇う側が履歴書を見ただけで不採用にするとか)がニートに妥協を促すことに成功していないのだとすれば、このアプローチをどのように行うかは繊細に考えるべきで、ニートの面子も適度に保つような配慮をしてやってもいいんじゃないかと。つまり、ニートにも妥協は必要だが、片務的になってしまってはニートは動かないだろう、ということだ。雇う側がニートに対して兵糧攻めを仕掛けていると考えれば勝負は決まっているようなものだが、少なくともフェアだとは思いがたい。

「未経験者」のうち、ニートとフリーターで異なっているのは、そのアンフェアな状況を受け容れるかどうかという点だろう。ただし、フリーターのうちでも「サラリーマンにはなりたくない」「実現したい夢がある」などのような理由で積極的にフリーターを選んでいるのは少数派ではないかと思う。むしろ親に経済的に依存できないからとか、収入ゼロよりはまだマシだからとか、消極的理由でフリーターになっている場合が多いんじゃないだろうか。また、順調にキャリアを積み重ねた同期や年下の人間に対して引け目を感じてフリーターに留まっているという場合、内的な状態はニートとほぼ同じである。

ニートではない側からニートを話題にする人たちの中には「いいから働いてしまえ」という内容の意見もあって、これは、単に「間に合わなくなる前に、少しでもましな生活を確保しろ」というメッセージであると同時に、「仕事をしてしまえばより良い条件の仕事が転がっていることもあるので、ひとまず何でもいいから『経験者』になってしまえ」という意図も少なからず含まれている、ような気がする。実際、アルバイトや契約社員から「経験者」となってマシな方向へと進む道も、少なからずあるのだろうと思う。ただしニートたちが「仕事の実態」らしきものに触れるのは、せいぜいマスメディアを通じてでしかないので、ニートが「いいから働いてしまえ」という言葉だけを聞いた場合、後者のようなメッセージとしては伝わりにくいと思う。このあたりの疎通がうまくいっていないことも問題のひとつかもしれないが、かといって働くことを勧める側も「絶対に良い条件が現れる」とは言えないので、断言するのは難しいところだろう。

とはいえ「ニートなんてまったく理解できない」という層が雇用の実権を握る限り雇う側の妥協は出てこないのかなぁ、とニート内々定者としては思うのだった。あるいは、「少ない人員で捌ききれるギリギリの量の仕事を懸命にやりくりするのが精一杯で財布にそんな余裕はないよ」という状況も事実としてあるんだろうし。近い将来、「期限切れ」の労働力が低待遇で使われていく状況はどうしたって出てくるだろうなぁ。

ほぼ印象論だけどとりあえずこんなもんで……ニートの「雇用」に対する見方については、個人的に70年代後半生まれとして経験したバブル崩壊のイメージと関わりを見出せる気がするのだが、それはまた気が乗ったときに。

今日の参考ウェブ一覧

追記(5/8 04:12): 全体的に追補・修正しました。

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屠殺場5号に、 死んでゆく牛はモーと啼いた。

2005/04/05 Tue 05:40

マルチタスクは人間に向いてない(CNET Japan)という記事を読んで、そういえば最近ひとつの主題を長時間キープして考え続けたりしてないなぁと思った。このとき念頭に置いていたのは主にここに書く内容のことで、以前はウェブに自分のことを書き散らしていたものだが、しばらくそういう書き方をしていない。というより、できなくなってるのかもしれないと不安にもなったりしたので、久しぶりに書いてみようかと思う。またしばらく忙しい時期に入りそうだし。

ある友人が、久々に会った彼の友人が社会的に立派になっているのでショックを受けていた、というのを間接的に知った。まぁ細かいことを問えば「社会的に立派になった」という表現には収まらない出来事であったようなのだが、とにかく彼はそういうような友人と自分とを比較して、空しくなっちゃったようであった。

僕はこの7~8年間で、周囲の環境がかなり激しく変化した。僕の周囲にいる人が、普通かそれ以下の社会的ステータスを持つ人たちが多数派であったところから、普通かそれ以上、あるいはとても良いステータスを有する人たちが多数派になってしまった。前段に登場する「友人」はこの7~8年の間に僕の友人になった人物で、今の僕と同じか、もっとひどい(周囲にいる人の社会的ステータスが高い)環境に置かれている。

僕の周囲にいる人々の社会的ステータスは分散しているので、彼のような事態に置かれたとしても彼ほどのショックは受けない。ビリー・ピルグリムのごとく「そういうものだ」と思ってスルーするか、少しはショックを受けたとしても自分の生活にあまり影響は出ないと思う。あるいは、僕が彼よりも老いていることがひとつの原因であるかもしれないが、しかしそれ以外にも置かれていた環境の違いが大きく作用しているだろう。

ある種の社会的選別が鮮明に現れてくるタイミングにさしかかったときに、置いて行かれる立場に立った/立たされたとき、置いて行かれるその落差が大きいのはむしろ、周囲に良いステータスを持っている人たちが多い人のほうなのかもしれない。

六本木ヒルズで行われているという若手起業者のサークルに参加している人が「ここに来るとテンションが上がるんですよね。みんなテンションが高いので、上げざるを得ない」と嬉々として語る様子をテレビで見たが、そういう資質ないし動機を共有する同士であればシナジー(笑)効果も期待できるのかもしれない。でもそれが共有されていない場合、ある種の悲喜劇的な状況ができあがる。同情するよ、伝わらないけど。

さて、全力でダッシュする側のトップグループにいる梅田さんの「次の10年はどういう時代か?」(My Life Between Silicon Valley and Japan)という記事から、彼が語ったという講演の内容を。

20代半ば(1980年生まれ前後)の人たちが、キャリアとして大きな成功を得られるか否かは、自分が2010年から2030年くらいの間に自分が何ができるか、ということにかかる。ちなみに、僕の場合は1960年生まれなので「1990年から2010年」という期間が極めて重要で、キャリア形成という意味では、その間に時代の流れとシンクロできたことが大きかった。

だとすれば、2010年から2030年という時代がどういう時代であるのか、ということをいつも意識して考えることが必要だ。そのためには、歴史はこれまでどういう風に動いてきたのかということから、これからの10年がどうなっていくか考える癖をつけるといい。

「自分はこれをやる」と内面から湧き出すものがある人は別だが、普通は、時代の大きな流れの中でどういう役割が果たせるのか、ということのほうがキャリアにおいては重要になってくるからだ。

僕と同世代でダッシュをかましている人たちは、いままさにこういうことを考えているのだろう。ちなみに僕は70年代生まれなので、「極めて重要な」2000~2010年はもうすでに半分が過ぎようとしている。僕は何かしてきただろうか――あまり考えたくない問いだ。ゼロだとは思わないが、何かを生み出すような蓄積かどうかは甚だ疑問である。少なくとも「キャリア」にはつながりそうにない。そして、ここしばらくは、「内面から湧き出すもの」もなければ「時代の大きな流れの中でどういう役割を果たせるのか」にもあまり関心がない。その「流れ」を眺めるのは嫌いじゃないが、そこに入っていこうとは思わない。

これはどういうことなんだと。とにかく不思議である。なぜこうまでもどうでもよく、しかもそれがかなり妥当であると僕が思っているのか。そう思わない人は、いかにしてそうなのかと。内面から何かが湧き出しているとすれば、そんなことばかりである。それはここ数年はじまったものでもない。だからこそ僕はキャリアを左右すると言われる重要な時期にあっても「これからお休みの人」と杉崎美香にカテゴライズされながら「めざニュー」を見ているのである。「それがあなたなんだからいいじゃないか」などというみつをイズムが欲しいのではない。

9年以上前の生活がひどく恋しい。

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男児突き落とし事件のこと

2004/06/24 Thu 19:53

社説:男児突き落とし 追い詰められる子供たち」(MSN毎日)

(……)今回の事件で加害者、被害者ともゲームセンターの常連だったことも驚きだ。未成年者や満18歳未満は締め出すはずの風俗営業に、幼児が出入りしても不思議に思わない感覚まひが社会に広がってはいないか。

 子供は子供らしく育てるべきを、都市化や都会生活の密室化、塾通い、パソコンの普及などが、ガキ大将を中心に子供たちが屋外で自由奔放に遊び回る環境をかき消してしまった。コンビニエンスストアに深夜まで若者がたむろしていることに象徴されるように、24時間型社会が夜間の外出や夜遊びに口実を与え、子供たちを非行や犯罪に接近させる結果を招いた。享楽的な大人の生活ぶりが悪影響を及ぼしてもいる。

今回の事件は、男子小学生が女子中学生に対して「(女子中学生がゲームセンターにいることを、女子中学生の)お母さんにばらす」と言ったことが発端となった、と、当の新聞自身が報じている。この社説では、事件の背景に、ゲームセンターに入ることが禁止事項にされていることのプレッシャーが存在し、口止めのために男児を傷つけようとしたたことを、まったく考えていないとしか思えない。この事件を見て「子供たちがゲームセンターにたむろすることを許容する大人社会」を、書き手への「自戒」も含めつつ批判するというお題目を繰り返すなんて、明らかな短絡だとしか思えない。詳細を見ようとする努力をひとつも感じない。子供たちの気持ちがわからない大人であることを、自ら明らかにしているようなもんだ。男児のコメントを取ったのは彼の同僚であるにもかかわらず、だ。

僕は中学から高校にかけて、「住んでいる」と形容できるほどゲーセンに通っていた。周囲から特に強い禁止を受けていたというわけでもなかったし、主観的に、今回の女子中学生ほど強く「罪」の意識を持つこともなかった。僕にとってゲーセンは居心地のよい場所だったし、その頃の友人とは今でも付き合いが続いていて、彼らとの関係は学校での友人よりもずっと親しいものだった。僕は「逸脱」と呼ばれるほど激しいこともすることはなかったし、少なくともゲーセンに「たむろ」する大多数は同じようなものだったはずだ。そして、ゲーセンにも秩序やルールはあるのだが、女子中学生はそれも守らずトラブルになることがあったという。ならば問題はゲーセンの外か、ないし少女自身にあったと考えるべきだろう。

ゲーセンにいる人たちは社会的に「ダメ」とされてしまう傾向があったかもしれないが、それはまったく努力を放棄しているという意味ではない。その方向が違うだけの話である。彼らはゲームとなると常軌を逸するほどまで努力していたし、そうした努力を社会的に認められる方向にも向けていて、高いステータスを持っている/後に得る人たちも数多く含まれていた。

と、ノスタルジーを込めてゲーセンを弁護するのはいい加減にしておく。たしかにすべてが良い思い出ばかりというわけでもない。しかしそこに暗い側面があると知ることもひとつの経験あるいは勉強だと、オヤジ臭い感想も付け加えておきたい。そして、この暗い側面は、いま言っていることとあまり関係がない。今回の事件はゲーセンへの出入りの「禁止」が問題なのだ。

この件に関して女子中学生を取り巻く状況を問題とするなら、学校に居場所を見つけられない子供に別の選択肢を用意することの是非や、さらにはそれをどういった形で提供するのか、などという論を展開するのはいい。あるいは学校やクラスという小社会のあり方、作り方であるとか、女子中学生が通っていたという「適応教室」(いやな名前だけど)について具体的に論じてもいい。学校の内外における「監視」や「禁止」のあり方に警鐘を鳴らしてみても、社説らしくていいかもしれない。でも今回の主張だけはまったく的はずれだ。

毎日は今日の朝刊の社会面にも「白昼の死角」と題したコラムを掲載している。直接的な言い回しではないが、文面にも、タイトルの「死角」という言葉選びにも、不信感が表れている。

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