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2006年四季賞夏、(主に)市川春子『虫と歌』

2006/09/22 Fri 07:28

 『』 そろそろ11月号が出てしまうけれど、月刊アフタヌーン10月号についていた別冊付録、2006年四季賞夏(谷口ジロー選)について。

 今回の別冊はとりわけ秀逸な作品が揃っていた。2ちゃんねる四季賞スレは「今までにない」盛り上がりだったようで、そのことも今回のレベルの高さを裏付けていたようだ。その中でも四季大賞を受けた市川春子『虫と歌』がさらに頭一つ抜けていたように思う。この点で、僕の評価と、先のスレの大方の評価は一致している。

 読んですぐに「すごい」と思って感想を書こうとしたんだけど、どうにも語る言葉が出てこずにぐずぐずと今日まで持ち越して、それでもまだ何も出てこないまま、もうなんでもいいからこの作品について書いておけばいいやというくらいの気持ちで40日ぶりくらいに指を動かしてみたり。こんなペースだから言葉が出てこないんだろうけど、まぁ仕方ない。まだ本誌が残ってて、別冊も付いてたらマジで買ったほうがいい。

 粗いようで実のところ繊細な描線は読者にイメージを補完させる力が強く、それでいて軽さを失わない。できる限り絵での描写を試みていて、微かな線も見逃せない。最後の最後で言葉に頼った説明が出てくることを悔いる声もあったけど、僕はカタルシスとして成立していたと思う。コマやページの流れはテンポよく、しかし穏やかに時間を流れさせている。あるいは、抑えているが止まることのない良い具合のセリフ回しが、相前後する時間の流れをうまく一本にまとめているのかもしれない。

 奇妙な、あるいはファンタジックな「兄弟/妹」の話。僕自身には兄弟姉妹がいないけど、もしこんな風だったらいるのもよさそう。さらに言えば、僕は他人のことが常に不安だったり怖かったりするところがあるんだけど、もし本当にこういう関係を築きうるのだとすれば、その不安や恐れを踏み越える価値はあるのかもしれない。でもふと自分が「現実」にいて、虫でもないということを思い出して、やっぱりだめかしらと思いつつ読んでると、もっといいなぁと思ってしまう。あるいはやはりそれが「家族」であって他人ではないということが重要なのかもしれない。それにしたってこの家族像はやや美しすぎるのではあるが。でもこんな関係が出来るんだったら、人と関係することはそれほど悪いことではないと思えた。

 自分がそこまで他人と関係したがっていないとは自分でも思っていなくてまず意外で、しかもその自分が「悪くないかも」なんて思ったところがさらに意外。それでも基本姿勢は変わらないだろうけど。

 ただ、端々に高野文子を思わせるところがあると評判なので、好きな人は気をつけて。

 他の三作品の中では『呪縛』が比較的人気だったようだけど、個人的にはそれほど大差なく良かったように思います。たしかに『呪縛』はサスペンスで引っぱっていく強さがあって、すぐに商業誌でいけそうなニオイはしたかもしれないけど。でもこの三作の能力は個性が違うだけで総合的な戦闘力(?)は同じくらいな気がします。

 評判について2ちゃんねるのことしか出てこないのは、面倒で他をチェックしてないから。

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ToDo4つ

2006/08/10 Thu 17:20

なんだかうまく作業が進まないので生活を見直してみると、色々なことで少しずつ時間が圧迫されてるらしい。そこで以下4つのToDoを掲げることにした。

  1. ブログを読まない――RSSリーダーなんてもってのほか
  2. メッセンジャーを起動しない
  3. テレビを見ない
  4. テトリスしない

4は別として、なぜ1~3を止められないのかというと、どうも世の流れから取り残されることへの不安が関係しているようである。テレビはマスなレベルを代表するもので、メッセンジャーはよりミクロな関係に対応し、ブログはその中間あたり(あるいは両者を含む)ものだろう。このToDoは以前にも書いたことではあるが、もう少し押し進める必要がありそうな状況である。

5年も前の曲だが、Gorillazの19-2000に表れている状況は少なくとも僕にとってあまり変化がない。

The world is spinning too fast
I'm buyin' lead Nike shoes
To keep myself tethered
To the days I tried to lose

My mama said to slow down
You must make your own shoes
Stop dancing to the music
Of Gorillaz in a happy mood

「自分の靴を作る」ことが必要なのはママに言われなくてもわかってる……つもりなんだけどね。「自分を今につなぎ止める」努力は空しく、スローダウンすることが結果的に先へ進むことにつながるというのは、僕の無意識的な焦りと一致しない事実であるようだ。志村はいつだって後ろに気づかないということか。違うか。

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追記:忘れてた。

  1. PCを起動しない

これ最強。

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大岡裁きで引っぱられる子供の気持ち

2006/07/22 Sat 04:34

さて、実は自分も中田英寿に通じるようなことを日々考える、悩みの時期に入っている。「凡庸」と表した自分もまた凡庸であることを突きつけられる。普遍的テーマを「凡庸だ」と切って捨てるのもイマイチだということか。

悩みの時期はある程度周期的に訪れるのだが、その悩みに引きずられるあまり公事に支障が出てくるのがいただけない。次のことへの心配と、現在のするべき/しなければならないことが相反し、結局はどちらへも向かえず、ただその場へ沈潜してしまう。「まずは今だ、急がば回れ急がば回れ」と念じて現在のことに集中すると、しすぎて周辺のものを見失い、ミスが出る。また少し沈潜する。スロットルの踏み具合が深い、タイミングが遅い。

早め早めに、いい具合に、踏む。理想はそこにしかないのだが、いい具合の女神ははるか前方、地平線の向こうに走り去っている。青は進め、黄色は急いで進め。周囲は適度に気をつけろ。車体にガタがきていても、踏んでみるしかないのである。75歳以上の老人は空前絶後の100点!

しかし頭も重い、身体も重い、もともと低い血圧が最近さらに低くなった。気の利いたオチも思いつかない有様で、本当に参った。自分探しの旅どころじゃなく、それ以前の段階で進めていない。凡庸じゃないかもしれないけど、あくまでネガティブな意味でしかない。

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日本サポーターはワールドカップ優勝を祝福できるか?

2006/07/11 Tue 04:18

 2006年ワールドカップ決勝は、延長戦を終えても1対1のまま決着つかず、PK戦にもつれこんだ結果、5-4でイタリアが勝利した。だがトロフィーを高く掲げるカンナバーロよりも、PKを外したトレゼゲよりも、延長後半5分、ジダンがマテラッツィに対して見舞った頭突きが最も印象に残っている。

 サッカー好きの友人は今回の頭突きについて、「マテラッツィはジダン対策として、あの場面に至るまでずっと野次りつづけていたのではないか」という観測を持っているらしい。重要なのは、その野次が「ジダン対策」であったかもしれないという点である。多かれ少なかれマテラッツィが野次っていたのは事実であるとして、それは「ジダン対策」だったのか。

インタビュー等などで見られる、はにかみやで静かな話し方から、謙虚で控えめな性格と評される反面、試合においては警告を受ける回数は少なくない。 有名なところでは、1998年フランスW杯で南アフリカの選手を両足で踏みつけ(2試合出場停止)、ユベントス時代の2000年チャンピオンズリーグではハンブルガーSVの選手へ頭突き(5試合出場停止)、レアル・マドリード時代の2004年リーガ・エスパニョーラではムルシアの選手に対して頭突き、また、2005年のリーガではビジャレアルの選手に対して突然平手打ちをするなど、瞬間的に頭に血が上りやすいことでも知られている。

ジネディーヌ・ジダン - Wikipedia (ja)

 ジダンが「瞬間的に頭に血が上りやすいこと」は、ヨーロッパのサッカー選手であれば当然知っているべき情報である。「ジダン対策」として「野次」が有効であると考える根拠には充分だろう。

闘争心旺盛な性格が災いし、ハードマークなどでファールを献上、カードを貰うことがしばしば。また熱くなりすぎでラフプレーも侵すことがある。この最たる例として、2004年2月1日のシエナ戦において試合に欠場したマテラッツィはシエナのDF、ブルーノ・チリッロに対し汚い野次を飛ばし続け、これに苛立ったチリッロが試合終了後にマテラッツィに詰め寄ったところ、マテラッツィはチリッロを暴行。チリッロが生中継に顔面あざだらけで現れこの事態を告白。マテラッツィは罰金と2ヶ月の出場停止を受けた。

マルコ・マテラッツィ - Wikipedia (ja)

 口汚い野次はマテラッツィの得意技であった。「ジダン対策」としてはまさに適任である。このマテラッツィの特徴も、ヨーロッパのプレーヤーであれば――マッチアップする機会があるならなおさら――知っているべき情報なのだろう。が、いずれにせよジダンはそれに耐えることができなかった。彼の行動は非難されて然るべきだが、ひとまずここで考えたいのはマテラッツィについてである。

 マテラッツィはジダンの性質を知っていた。そして実際に野次を飛ばしていた。その狙いは功を奏し、結局ジダンは自ら退場を準備することになった。マテラッツィが退場まで期待していたかどうかはわからないが、不意の一撃という代償を差し引いても十分すぎる「成果」を挙げた。勝負の結果を見れば、彼の行動がイタリアの勝利に貢献したと見ることはできるだろう。決定的なものではない、しかし大きな要因のひとつではあった。少なくとも試合後の現在はそう思える。

 以下は、ルモンドが伝えたフランス代表ドメネク監督の試合後のコメントである。

Materazzi a fait beaucoup de cinéma quand il est tombé de si haut. Il est grand, il est costaud, et un coup de vent l'a fait tomber. L'homme du match, ce n'est pas Pirlo, c'est Materazzi, il marque et il fait exclure Zidane...

あれだけ大げさに倒れて、マテラッツィは大芝居を打った。彼は背が高く、頑丈だが、ある突風が彼を倒したんだ。マン・オブ・ザ・マッチ、それはピルロではなく、マテラッツィだ。彼はジダンをマークし、そして排除したんだよ……。

Le Monde.fr : Raymond Domenech : "L'homme du match, c'est Materazzi"

 マテラッツィの野次は、チームの勝利に貢献した。あれはひとつの「チームプレー」となった。イタリアベンチの思惑がそこに介在していたかどうかはわからない(これも問う価値のある問題かもしれないが、ひとまず措く)。だが個人の判断であったとしても、それは結果的に「チームプレー」となった。ここでの「チームプレー」とは、協力して複数の人間が行動することではなく、チーム全体に貢献する部分的な行動というくらいの意味である。

 どちらも鉄壁の守備を堅め、同点のままPK戦までもつれこんだ試合の勝敗を分けた分水嶺は、マテラッツィの野次によってもたらされた。あれだけの勝負に勝つためには、そこまでしなければならなかったということである――少なくともあの試合に関しては。サッカー、いやフットボール/カルチョとは、おそらくそういう部分を含むスポーツなのであり、それを「悪い」と言ってもそうであることをやめないものなのだと思う。

 W杯前、ある日本メディアがブラジル代表のカカに行ったインタビューをテレビで見た。そこでは日本代表の印象についての質問もされていて、カカは「日本代表に足りないものは、ズルさだと思う。ラフプレーという意味ではなくてね」という内容の返答をしていた。カカがその「ズルさ」にマテラッツィのような「野次」を含めていたかどうかはわからない。しかし今では、この発言が今回の件に強く結びつくように思えてならない。

 日本代表がW杯を征するために必要なもの、それは中田英寿が伝えたかったものでも、イビチャ・オシムが伝えようとするものでもないかもしれない。そして、日本代表が「それ」を手に入れ、W杯を手にしたとき、日本サポーターはその勝利を祝福できるだろうか?

 ……以下余録。

 やはり頭突きの原因は全世界的な関心事らしい。とりあえずスポニチ。

 イタリアのマテラッツィが暴言を吐き、ジダンは怒りを抑えられなかったとの見方が支配的だ。その暴言の中身について、フランスのニュース専門テレビLCIの記者は「人種差別的な内容、あるいは家族に関する内容だったのではないか」との推測を紹介。ジダンはアルジェリア系移民の家庭に生まれた事実が念頭にある。

 フランス公共ラジオによると、ブラジルのテレビ局は読唇術の専門家の分析として、マテラッツィがジダンの姉を侮辱する発言を2回繰り返したとの見方を伝えた。侮辱されたのは母親との憶測もある。

スポニチ Sponichi Annex 速報: ジダン頭突きの原因めぐり報道合戦

 で、あまり徹底して探したわけではないが、フランスNouvelle Opsはジダンの従兄弟のコメントを伝えた。推測の域は出ないが、やはり彼の出自に関わる内容ではないかと述べている。

AGUEMOUNE, Algérie (AP) -- L'un des cousins de Zinédine Zidane a rapporté lundi que le coup de sang de Zizou contre Marco Materazzi dimanche soir en finale de la Coupe du monde serait né de l'insulte de "terroriste" qui aurait été proférée par le défenseur italien.

Rabah Zidane, interrogé dans le hameau familial d'Aguemoune en Kabylie d'où est originaire la famille Zidane, a jugé que "Zizou, dans ses habitudes, il ne frappe pas. Il est gentil. Il ne frappe pas. Mais sûrement, (Matterazi) a dit quelque chose grave". il a ajouté avoir entendu que son cousin avait été traité de "terroriste". "Si c'est comme ça", il a eu raison de réagir.

Après un échange verbal avec le défenseur de l'Inter de Milan, Zidane lui a donné un fort coup de tête dans le thorax, se faisant expulser par l'arbitre à la 110e minute de jeu.

"On est déçu, on est triste", a confié Rabah Zidane. "Malheureusement, ça s'est mal terminé. C'est ça, le football: il y a un gagnant, il y a un perdant". Toutefois, le fait que Zinédine Zidane ait été élu le meilleur joueur de la Coupe du monde "nous fait plaisir", a-t-il ajouté. AP

アグムーヌ、アルジェリア(AP)――月曜、ジネディーヌ・ジダンの従兄弟の一人は、日曜夜のワールドカップ決勝において、ジズーがマテラッツィに対して憤激したのは、イタリア人ディフェンダーが発言した「テロリスト」という侮辱によって生じたことではないかと述べた。

ラバ・ジダンはカビリ地方のアグムーヌにある一族の集落で取材を受けた。ジダンの一族はこの地に由来する。ラバは「ジズーには殴ったりする習慣はない。親切だよ。殴ったりしない。だが確かに(マテラッツィは)何か深刻なことを言ったんだ」と判断した。

インテルのディフェンダーと言い合ったあと、ジダンは彼の胸部に強い頭突きを加え、110分、自ら退場を宣告されにいった。

ラバは「みんな裏切られたし、みんな悲しんでいる」と打ち明けた。「不幸なことに、悪いかたちで終わってしまった。これがフットボールなんだよ。そこには勝者がいて、敗者がいる」。しかしながら、ジダンがワールドカップ最優秀選手に選ばれたことは「我々を喜ばせた」とも付け加えた。AP

Le Quotidien Permanent du Nouvel Observateur- Mondial: Zidane aurait été traité de "terroriste" par Materazzi, selon un de ses cousins

 この問題を掘ってゆくと、いずれにしてもその生い立ちや経歴、背景に立ち入らざるを得なくなってゆく。これはジダンに限らず、マテラッツィについても同様である。ラバ・ジダンとは別の意味で「これがフットボールなんだよ」と思ってしまう。こうしたことは化の二人だけにあてはまるのではなく、すべてのプレーヤーの裏側にあることなのだろう。

 僕はそれらの諸々についてまったく無知なミーハーにすぎないが、今回はいい勉強になった。

関連:アンカテ(Uncategorizable Blog) - 日本サポーターはごっつぁんゴールを祝福できるか?

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中田英寿の引退と、「人に頼りたくない」願望について。

2006/07/10 Mon 02:53

 さて、これからワールドカップ決勝なわけだが、今さら感もありつつ中田英寿の話を書いてみようと思う。

“人生とは旅であり、旅とは人生である” 2006.07.03 - nakata.net -- 中田英寿オフィシャルホームページ

 サッカー選手のはじめての引退宣言を信用していいものかどうか迷うところだが、とりあえず彼が「引退」という言葉を口にしたのは事実。29歳での引退を「早い」と評価する声もあり、僕自身としてもそう思うところはあけれども、しかし彼にとってはその「早め」のタイミングが重要であったのだろう。それはなぜか。

 中田はこれまでにも「大学へ行きたい」と語ったことはあったし、先日には、今後ハーバードでMBAを取得しようと計画しているという話も伝えられた。以前から彼は「次」のこと、つまりサッカー以外の進路を考えている――少なくともどこかにそういう希望を持っていることは知られていた。

 以前、中田がインタビューに応える様子をテレビで見たことがある。そこで中田は恋人について聞かれており、彼は「自分は一人でなんでもできるようになりたい。だから恋人も必要なものとは考えられないので、長続きしない」という内容の返答をしていた。記憶頼りなのでその発言をはっきり示すことはできないのだが、彼は、あることをするために誰か他人が必要になってしまうのは避けたい、ということを言っていたはずである。

 できるだけ他人に依存したくない。「恋人」という枠を外し、上のコメントの意味を深く解釈すればそういうことになる。このチームスポーツの選手としては致命的とも言える意識は、しかし確かに中田のなかにあったのだと思う。

 さて、ここで僕自身の話になる。僕は先のインタビューを聞いたとき、深く共感した憶えがある。僕にもできる限り他人に頼りたくないと思う傾向がある。もちろん自分が万能になることはできないが、できる限りその範囲を広げたいと常に考えている。逆に、ひとつのことをあまりにも長く、深く続けてしまうことには抵抗がある。特に、ある程度熟練し、それ以上に上達するためには何か他のことを犠牲にしなければならないような場面に出くわすと、むしろ「これはもういいか」と思ってしまうことが多い。

 中田はサッカーについて、上のような脈絡で「これはもういいか」と思っているんじゃないかと思うわけである。もちろん、そこには29歳という要因も関わっており、そうしたタイミングの「良さ」が「引退」発言につながったという考えは、そう的外れではないだろう(そしてたぶん、目新しいものでもない)。

それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。
時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。
だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。

 僕は、なぜ「できるだけ自分でやりたい=他人に頼りたくない」と思うのか。その一つは、コミュニケーションがそれほど得意ではないという要因による。その意識は、コミュニケーションは面倒だという考えにもなっていく。だから、他人に目的や手順を伝えて代わりに実行してもらうコストを考えると、「自分でやったほうが早い」と考えてしまう。でもどうしたって自分にできないことはある。色々な場面で、そのたびに「これが自分でできたらなぁ」と思うようになる。コミュニケーションにそれほど時間を割こうとは思わないので、何かを学んだり練習したりする時間が相対的に増える。ストイックなイメージを持たれることも多くなる。

 もう一つの「他人に頼りたくない」理由は、何であれ他人に依存してしまった上でその人がいなくなった場合のリスクを必要以上に気にしてしまうためである。こういう意識がなぜ芽生えたのかと自分を省みてみると、自分が経験した社会変化がひとつの大きな要因だったのではないかと思う。

 僕は中学から高校時代にかけてバブル景気を経験し、社会人が湯水のごとく経費を使う話だとか、上の世代が大学で遊びまくる話だとか、易々と就職を決めてゆく様子だとかを、自分が近い未来に立つであろう状況として経験しながら育った。しかし自分がそこに立ったときには、その想定を修正せざるを得ない状況になっていた。自分の能力がなければ有利な立場には立てない、という意識は、このときに芽生えた気がしている。現在その状況はより先鋭化し、(かつての)平均的な社会生活すら競争に勝たなければいけない(と多くの人が言う)状況になっているが、そこに至る坂道の最初の世代が70年代中頃生まれである。つまり、「自分をとりまく状況はいつ変化するかわからない」というリスクヘッジ意識が比較的大きなインパクトによって刷り込まれたところが、「他人に頼りたくない/頼ることはできない」という意識に結びついているのではないかと、自分では考えている。

 中田英寿と僕との間には、大いなる格差がある――それは収入、素質、努力、「現実」に適応する力(ある程度は何かを犠牲にして一つのことを追求できる継続力、次の進路に経営学を選ぶしたたかさ)、チームスポーツで一流になれる程度には持っている社会性など、枚挙にいとまがない。だがそれでも、どうしてもまったくの他人とは思えないところがある。その数少ない部分は、上に述べた通りである。その似た部分で考えると、今回の彼の決断はとても共感できるし、それほど驚くべきものでもない。彼にはやりたくてもできなかったことが数多くあるだろうし、そうしたことへのこだわりも強いだろうから。

 これは単に自分語りであるに過ぎない。でも中田と僕の考え方に似ているところがあるとは感じるし、それはもしかしたら1976~77年生まれという世代(あるいはそこを中心とする数年の世代)のひとつの傾向を示しているのではないかとも思っている。だがそうであるとすれば、あまり喜ぶことのできない社会変化に適応しようとしてしまっていることになる。万能に近づこうとする形で自分を高めることにつながっていると考えればポジティブに働いているのではあるが、その姿勢の背景は悲しいものである。

 社会変化ということについてはもう一つ、70年代半ば生まれがしばしば「狭間の世代」「無風世代」などと呼ばれていることも付け加えておくべきかもしれない。この世代には、その世代を強烈に彩るようなものが乏しく、一言で言い表すのが難しい。つまり前後の世代とのコミュニケーション基盤があまり強くないことが、コミュニケーションへの苦手意識を持たせることになっているかもしれない、ということである(だがこのことは、両方の世代とコミュニケートする可能性にもつながっているかもしれない)。

 まあこれも、大ざっぱな世代論ではある(世代論はだいたい大ざっぱだけど)。しかし自分の周りを眺めてみるに、コミュニケーション不全だったりストイック気味だったりする同世代はけっこう多い。これは僕自身がそういう人間だから似たような人間が周囲に増えるというようなことだと思っていたのだが、どうにも中田の姿を見ていると、やはりもっと大きな問題が関係しているような気がしてきてしまう。だとすれば、せめて彼にささやかな共感をしめして「我々」感を噛みしめてみたいかなと。

 まぁ僕は「なんでも自分でやろうとする」という傾向をそれなりに気に入っているし、そういう他人も嫌いではない。コミュニケーションなんかしないで、いろいろ手を広げるのもいいだろう。周りに煙たがられても自分でやればいいじゃない。専門分化なんか欠落だらけの人間の寄せ集めだと思いながら、いろいろできるやつになっちゃえばいいじゃない。とりあえずヒデは「自分探しの旅」なんていう語彙を使う凡庸さから脱してほしいと思います! がんばれ!

 と、明らかに適当なまとめになってますが、これからまさにW杯決勝がはじまるので仕方ないのです。ではまた。

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